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​水底に鏡

「あら、驚いた。紅茶を淹れるのがお上手なのね」
 ──それはおまえのために用意したものではない。舌の上まで転がり出た言葉をすんでのところで噛み砕き、喉へと押し戻す。会話をすることさえ忌々しく思われた。
「うちの子もたまにお茶を淹れてくれるのだけど、とても敵わないわ」
 優雅にティーカップを傾ける姿をじっと睨めつけながら、一体どうしてこんなことになったのかと考えを巡らせる。
 その日はブロトにとって厄日であった。
 朝から幹部同士の口論が勃発し、それがきっかけとなって島を開くことに賛成の者と反対の者との間にある溝が浮き彫りになってしまった。その場はどうにか収まったが、結果として島内にいやな緊張感をもたらした。
 ネモ船長の私室に来た理由は、口論の仲裁に入った古参クルーにそう頼まれたからだ。幹部同士のいざこざとなれば報告をあげないわけにはいかないだろう、というのが古参クルーの論だった。ブロトにしてみれば船長を煩わせるほどのことではなかったが、上席のクルーにそう言われては切り捨てることもできなかった。
 そうしていざ紅茶を持って船長室を訪ねると目を疑う光景が広がっていた。見知らぬ女がネモ船長の椅子にどっかり座っていたのだ。
 女は慌てもせずにこやかに微笑んだ。「あら、嬉しい。紅茶は大好きよ」
 硬直するブロトの手からポットとカップの載ったトレイを抜き取り、勝手に紅茶を注ぐ。なめらかな動作にブロトが制止する隙はなかった。
 一体何者なのか、どこから入ってきたのか、何故よりにもよって船長室に居座っているのか──まじろぎもせず監視する。その間に名を尋ねられた気もしたが黙殺した。
 やがて女はつまらなさそうに椅子にもたれた。
「この島の方々ってロボットみたいな顔をしているわね」たおやかな仕草でカップをソーサーに載せる。「よくって? 感情とは人との繋がりを保つためのもの。見せ所をきちんと理解して──」
 女が言い終わらないうちに部屋のドアが突然開かれた。
 振り返ったブロトは反射的に左手を右肩に当てる。その姿勢のまま、ようやく戻ってきた部屋の主人に道を譲った。
「お待ちしておりましたわ」
 やおら立ち上がった女が軽く膝を曲げながら頭を下げる。対するネモ船長は──ブロトの予想に反して──冷静に目礼を返した。
 ネモ船長の視線がブロトに流れ、ただ一言「私の客だ」と告げた。それは退出を促す合図でもあった。ブロトは中身のなくなったティーポットをトレイごと持ち上げ、速やかに部屋を出た。

 硬質な足音を響かせながら考えるともなく考える。
 ブロトは、別にどちらでもよかった。
 島の外には興味も湧かない。ネモ船長がそうと決めたならば自分は従うだけだ。価値とはノーチラス号のクルーという集団にあるもので、ブロトという個人の主義主張にはない。理想も正邪も、それがネモ船長の言でないのなら語るほどの値打ちはないのだ。
 ──けれども、故にこそ、他ならぬネモ船長の変化が怖くて堪らない。
 無人の調理場にティーセットを下げる。磨き上げられたシンクにブロトの姿がぼんやりと映り込んだ。
 ブロトは考え続ける。
 ──鏡。
 ネモ船長だけがブロトを映す鏡だ。ネモ船長の価値判断、言動、命令。自分を構成するものはそれだけでいい。
 ──それだけでいいから今この状況が耐えがたい。
 鏡を覗き込んでも、朧気に揺れて焦点が定まらない。自分がどこに立っているのかも見失いかねない。
 ブロトはただじっと考え続ける。
 ブロトが「島を開く」ことについて思案するとき、まず思い浮かべるのは幼馴染みのことだ。次に、自分の立場のこと。それから──
「……いや」
 ブロトは矢庭にかぶりを振った。眉間を揉み、全ての思考を脳から追いやる。重要なのはクルーとして為すべき役割であり、私的なことを考える余地は不要だ。
 そもそも自分は何のために船長室に行ったのだったか。口論の報告だ。だがあの女のせいでできなかった。とすれば、次に取るべき行動は何か。
 ブロトは踵を返した。
「報告書をあげねば」
 個人の主義主張に価値はない。ネモ船長こそが倫理であり、価値そのものだ。
 迷いのない足取りで廊下を突き進んでいく。
 目下ブロトの頭にあるのは、報告書のこと、そしていかにして幼馴染みに仕事をサボらせないかということだけだった。
 

りんごさま(https://twitter.com/asayakenoyume)にいただきました!!

​お話を書いていただくにあたりブロトが島に外部の人間が入ってくることについてどう考えているのか

恥ずかしいくらい拙い言葉でご説明したのですが

こんなにも丁寧にブロトの心の機微を表現してくださって感動で震えております……!!

すごい…!あとブロトが!かわいい!!!!

​りんごさん、本当にありがとうございました!

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