死なせるわけにはいかない
「子供を乗船させるべきではない!」
拳をたたきつけられた金属の板の壁がしなる。ぐわんぐわんと音が反響し、張り詰めた部屋の空気を震わせた。
額に血管を浮かべるクレーメンスをなだめながら、ヨモはどうしたものかと頭をかいた。
×××
2カ月前、地中海の沿岸で、ノーチラス号はコバルトブルーに澄み切った空を覆い尽くすかのように立ち込める煙を発見した。陸地に近付き潜望鏡を向ければ、一人の少年が何かを引きずり海岸をさまよっている。足をもつれさせながら、今にも崩れ落ちそうに歩く少年の周辺に人影はない。乗組員たちが上陸し確認したところ、栗色の癖毛の少年が引きずっているのは、彼と同じ年頃の人間だった。息絶えたように思えた黒髪の少年は、かつて服だったのであろうボロボロの布を上半身にまとっており、裂けた繊維の向こうの背中の皮膚は破れ、めくれ上がり、血と砂が混ざり合ったどす黒い塊が張り付いていたが、確認すると微かに息がある。
乗組員たちは二人の少年を船内へ招き入れ、保護した。
黒髪の少年の傷を洗浄するのは大変だった。凝固した血を水で洗い流し、張り付いた布地を皮膚から剥がした。さらに露出した肉に食い込んだ小石や砂粒も取り除く必要があったが、意識を取り戻した黒髪の少年は四肢を振り回し絶叫するので、数人がかりで抑え込まなければならない。そうしているとやがて激痛で失神し大人しくなるのだが、その都度ショック死していないか確認せねばならなかった。目を覚ました少年は、再び痛みで泣き叫んだ。
「もう少しで終わるよ。頑張れ……、どうか、頑張ってくれ……」
声を発する体力もなくなったのか、朦朧としたままの少年の手を握り締めながら、ヨモは何度も語りかけた。このノーチラス号で唯一の医者であるヨモは、クルーたちの指揮を執り治療に当たっていた。しかし正直なところ、黒髪の少年が助かるかは分からなかった。祖国で藩医を務めていたヨモであったが、鞭で打たれたであろう拷問の傷を見ることは初めてだったのだ。
傷は化膿し何日も高熱が続いた。しかし幸運にも徐々に熱は引いてゆき、背中の傷も回復の兆しを見せはじめている。傷跡は残るだろうが、きっと命は助かるだろう。
もう1人の癖毛の少年は多少の出血はあったものの、けがの程度は軽かった。しかし疲労困憊という言葉がふさわしく、もう一人の少年を慌ただしく船内に担ぎ込む中、壁にもたれかかって座り込んだまま一言も発さず動こうとしなかった。クルーの1人がソファに座らせてやろうと腕を引っ張らなければ、その腕が折れていることにも気が付かなかったかもしれない。
毎日朝から晩まで黒髪の少年の治療につきっきりであるヨモは、出会った初日に傷の様子を確認して以来、癖毛の少年とはたまに顔を合わせる程度でほとんど言葉を交わしていない。彼のことは船長がよく面倒を見ているというので心配することはないのだろうが、なぜか彼は黒髪の少年を治療している部屋を訪ねてくることもなかった。
あんなに必死で助けた友人なら、様子を見に来てもいいと思うけれど……。そこまで考えて、いいや、友人であるとも限らないのかと思い直した。
よくよく考えてみれば、2人の交友関係がどういったものであるか聞いたことはない。同じくらいの年齢に見えるため勝手に友人同士なのかと思っていたが、偶然その日に出会った可能性もあるだろう。そしてすっかり失念していたが、彼の名前すら聞いていないことを思い出した。
「……błotoだそうだ」
「ブロト? 格好いい名前だね」
思ったままの感想を述べただけなのだが、クレーメンスは眉間の皺を深くしてぎろりとヨモを睨んだ。 何かまずいことを言ったようだとヨモは瞬時に悟ったが、呆れたようにため息をつくクレーメンスに理由を尋ねることはしなかった。この潜水艇に乗り合わせた以上個人間の詮索は禁物だということは、この船の乗組員全員の暗黙の了解だ。そしてそのルールを作り上げたのは、他でもないこの船の主人であるネモ船長だった。
この船内でネモ船長の存在は絶対だ。それもあって普段言い合いなどしないクレーメンスとヨモだったが、このピリピリとした空気は、クレーメンスが船長に2人の子供の処遇を聞いたのが始まりだった。
これまで船長は2人の子供をどうするか話したことがなかった。しかしヨモは思っていた。自分が拾われたとき説明がなかったのと同じように、当然このまま乗組員として扱うのだろう。事実、潜水艦は二人を発見した陸地からどんどん西へと向かっている。もはや引き返す気がないことは明白だった。
しかし今朝、クルーが集まる操舵室でクレーメンスは船長に尋ねた。
「船長。あの2人をどうするおつもりですか。まさかこのまま船に置いておこうなどと、お考えではありませんね?」
言葉こそは丁寧だったが、言葉の隅々にまで棘をまとわせたような強い口調だった。ヨモは目を丸くし、同じく絶句しているクルーらとその様子を見守っていた。船長の回答が気になった事もあるが、常に誰よりも従順であるクレーメンスが船長に意見することにその場にいた全員が驚いていたのだ。そして船長はというと、何も言わず円形の窓の向こうの甲板の先を見つめるだけであった。
数秒か、数十秒か。耳が痛くなるような沈黙ののち、ピアノ線のように張り詰めた空気を舌打ちで切り裂くと、クレーメンスは操舵室から出て行ってしまった。どのクルーも動揺して顔を見合わせていたが、言葉を発しようとはしなかった。
結局クレーメンスが不在のまま針路の調整が行われ、手が空いたヨモはクレーメンスを探しに部屋を出た。
×××
螺旋階段の途中に座り込み、ブロトは息を殺していた。
階下のすぐ目の前の部屋の扉は閉まっていたが、中からかすかに2人分の声が聴こえる。1人はクレーメンスと呼ばれているクルーだろう。先程どんという大きな音と、彼の怒鳴り声が聞こえた。この潜水艦に来て怒声を聞いたのは初めてだった。数分前まで自分用にとあてがわれた部屋で本を読んでいたブロトだったが、騒ぎを聞いて何事かと様子を見にきたのである。
揉めている理由には察しがついていた。きっと自分たちの話をしているのだ。
この船の乗組員たちに助けられたあの日。命にかかわるような大けがは負ってはいなかったが、体中は鉛と化したように重く、数刻友人を背負っていた足では立ち上がるのもやっとだった。促されるまま友人の血と砂が混ざり合った泥を落とし、ベッドに沈み込み目を閉じた。しかし数日意識を手放せればいいものを、数枚金属の板を隔てた向こうからでも聞こえる叫び声は嫌でも脳を覚醒させ、容易く自分を恐怖の底へと突き落とした。
自分は選択を間違ったのかもしれない……。
両手で耳を塞いでも、指の隙間からすり抜けた悲鳴は鼓膜を突き抜け、脳を揺さぶった。それが友人のものなのか、自分の頭の中で響いている物なのか、自分の口から出たものなのか、もはや分からない。結局身体の疲れはましになったが、まともに眠りにつくことはできなかった。
何日経ったのであろうか。窓も時計もない部屋では時刻の経過が分からなかったが、ある日ネモ船長と呼ばれる男に、食事に招かれた。それまでは乗組員が部屋まで食事を運んでくれていたが、とても食事をする気分にはなれなかった。たまに思い出したように空腹に襲われ、冷えた料理を少し口に入れてみたこともあるが、舌がおかしくなっているのか奇妙な味しか感じなかった。
食堂だと通された部屋は簡素な作りであったが、戸棚のガラス越しに見える食器はどれも高価そうなものばかりだ。天井の高雅な装飾で和らいだ照明が、テーブルに並べられた料理を照らしている。きょろきょろと部屋を見渡していると、椅子に座るよう促される。銀のフォークを手に取りながら、船長は口を開いた。
「君の名前は?」
「……ブロト……です」
ベッドの中で何度も夢に見た友人の姿が脳をよぎり、とっさにそう答えていた。船長と視線がかち合う。澄んだような靄がかったような、不思議な瞳だ。その瞬間、火花が散ったような錯覚を覚えて顔を伏せた。テーブルの上の見たことのない料理が視界に入る。何もかもを見透かされているような気持ちに襲われ、額に汗が滲んだ。
「そうか。……君の友人だが」
名前について追及されなかったことに安堵するもつかの間、あれだけ泣き叫んでいた幼馴染の声が聞こえないことに気が付いた。次に切り出されるのであろう話を拒むように。身体中に鼓動が鳴り響く。俺の責任だ。テーブルの下で拳を握り締める。手のひらに爪が食い込み、関節が白く浮いた。
「君の友人だが――もう大丈夫だ。しばらく熱を出していたが、安定している。今は麻酔のおかげで眠っているよ」
穏やかな声が左胸の暴走を和らげた。ゆっくりと顔を上げる。言葉の意味を理解すると同時にぼたぼたと両目から雫があふれ、ソースで表現された皿の模様をじんわりと滲ませた。テーブル越しに真っ白なナプキンが差し出され目元を拭われる。
しゃっくりを上げながらブロトはフォークで料理を口に運んだ。久しぶりに喉を通る料理はおいしかったが、やはり奇妙な味がした。
それからというもの、ブロトは船長に呼ばれては窓から海の生物を眺め、名前やその生態について説明を受け、本を開いて読みふけるなどして過ごした。海の世界を知るのは初めてだったが、巨大な一匹の魚影を作り出す小魚の大群やガラスケースの中の貝殻の標本を眺めているときは煩わしい思考から逃れられる。ブロトの鼻息で曇った標本箱をさりげなく袖で拭きながら、船長はじきに潜水服を着せてくれることも約束してくれた。
ネモ船長は親切だ。しかし色素の薄い金髪を後ろになでつけた長身の乗組員――クレーメンスは、自分の姿を見るたび眉をしかめるのだ。気に入られていないことは子供心に分かっていたが、かといって直接何かを言われたことも、されたこともない。どうやらこの男は船長に逆らうことはしないらしい。そう気づいてからは、その視線から隠れるようにしながら、呼ばれるままに船長に着いて船内を歩き回っていた。
ギイ、と軋んだ金属音が響き、ブロトははっと顔を上げると急いで腰を低くしたまま階段を数段上に引き返し、音を立てぬよう注意しながら階下の様子をうかがった。
「待てって、クレーメンス!」
扉の開いた部屋から明かりが漏れ、床を照らす。2人分の影が現れるが、幸いすぐに部屋から出てくる様子はない。姿は見えないが、彼を引き止めた声の主はヨモと呼ばれているクルーだろう。
ヨモはこの船で唯一の医者らしい。生死の境目を彷徨った友人は一命を取り留めたものの、今も乗組員が近づくと悲鳴を上げ泣き喚くので、現在彼に近付くのはヨモ1人だけだ。毎日つきっきりで看病しているらしいヨモの目の下は、寝不足のせいか大きく窪んで影が落ちていた。看病する側の体調は大丈夫なのかと心配にもなったが、顔を合わせるたび、やあ、と優しく目元を緩ませてくれるヨモのほほ笑みは、ブロトの緊張をほぐしていた。クレーメンスのことは正直恐ろしいが、ヨモは信頼できるかもしれない。
扉が開いたおかげ会話が聞き取りやすくなった。ブロトは首を可能な限り伸ばして、耳をそばだてた。
「彼らはまだ子供だ。それにあの国のありさまを見ただろう。元の土地に帰すことはできないよ。ここに居させられないなら、どうするっていうんだ?」
「どこでもいい。どこか安全な国を見つけて、孤児院にでも入れればいい」
孤児院?
どくんと心臓が脈打つ。気道になにかつっかえたような感覚を覚え呼吸が苦しくなる。舌の表面が乾燥し喉の奥がチリチリと痛んだ。ああ、自分たちを追い出す話をしているのか。確かに保護されてからこの2カ月間、自分たちはどうなるのか知らされてはいなかった。
「クレーメンス! あの子を見れば分かるだろう? けがだってどこまで回復するか分からない……君にもあんなにおびえて、私も毎日話しかけてようやく会話できるようになってきたばかりなのに」
そうだ、その通りだとブロトは心の中で繰り返した。同時に、「どこまで回復するか分からない」という医師の言葉は冷水を浴びせられたかのごとく心臓を冷やした。
兵士の目を盗み、なんとか浜辺まで逃げ延びた時は、どこに向かえばいいかも分からなかった。ただ連中の手で命を奪われないよう、必死だった。この船の乗組員に手を差し伸べられた時も、天の助けと思うか諦めか、軋んだ思考の中では判断できなかった。ここまで連れてきた友もきっと助からないであろう。こんなに出血して、体はもはや冷え切って刃物のように冷たいのだから……。
それでも奇跡と呼ぶべきか、乗組員たちに感謝すべきか、諦めかけた友人は回復した。意識を取り戻したことに誰より驚いていたのはブロトであったが、その時の感情は喜びではなかった。打ち震える胸を占めたのは、他でもない安堵と、取り返しのかないことをしてしまったという恐ろしさの両方であった。船内で目を覚まし、状況を理解しきれていない彼が、泣きながら何度も叫んだ「殺して」という懇願が鼓膜にずっと張り付いている。
自分のせいで命拾いした友人と向き合うのが、怖かった。
「だからなんだ。お前に慣れたのならどこに行こうとじきに慣れる。ここに居させる意味はない」
「慣れって……」
無慈悲なクレーメンスの意見をヨモが覆してくれることをブロトは願ったが、次第に小さくなる声は祈るだけ虚しいだけだと知らしめるようなものだった。
「……1人ならどこに投げ出されようとかまわない。けど、あいつは……」
あいつはあの状態で生きていけるのか? 故郷には戻れない。人におびえ毎晩泣いているあいつは、ここを出て、見知らぬ土地で生きられるだろうか?
「俺は、あいつを――」
今やるべきことはひとつだ。すべては自分の責任だ。自分が責任を取らなくてはならない。
×××
もう一度船長と話すと言うクレーメンスを止めることはできなかった。自分より軽く6寸は超える長身を、ヨモは小走りで追いかける。まさかクレーメンスがこんなにも反対するとは予想外だった。以前から頑固な男だとは思っていたが、船長に意見するほど感情をあらわにすることは初めてのことで、この後に起きるであろう論争をどうやって治めるべきか全く見当もつかない。あれこれ考えているうちに、あっという間に操舵室の前に戻って来てしまった。
「失礼します。船長」
三度ノックをすると返事も待たずにクレーメンスは操舵室の扉を開いた。そのまま部屋へと一歩足を踏み入れたクレーメンスに続こうとしたが、クレーメンスはぴたりと動きを止めてしまった。
「クレーメンス……?」
ヨモがどうしたのかと声をかけるのとほぼ同時に、幼い声が正面の部屋から聞こえた。
「お願いします。なんでもします。どうか、これからもここに置いてください」
ヨモは驚いて、爪先を立ててクレーメンスの肩越しに部屋をのぞいた。船長の足元に、癖毛の少年がうずくまっている。
「あ……」
タイミングがいい。きっと先ほどの自分たちの会話を聞いてしまったのだろう。悪いことをしてしまった……そう思考を巡らせていると、突然クレーメンスが勢いよく扉を閉めた。ガシャン! という騒音が船内に響き渡り、ヨモはビクリと身体を跳ねさせる。
クレーメンスはネモ船長に逆らわない。船長も、ああして本人から頼み込まれては断ることはしないだろう。静かに肩を震わせているクレーメンスの背を、おそるおそるヨモは見上げた。幼い子供たちに当たるようなことがないといいのだが、どうやって怒りを静めよう。
「……あの子がそうしたいと願っているなら、仕方が――」
「満足か」
「え?」
「これでお前は満足か」
くるりと振り返ったクレーメンスに見下ろされる。青々とした瞳が冷ややかにヨモへと向けられた。想像よりもクレーメンスは冷静なようだ。どういうことかと瞬きを繰り返すと、クレーメンスは口を開いた。
「自分の生きる道の選択なら、これからいくらでもできる。ここに留め彼らの選択肢を奪うのか? おまえの意思で、2人分の人生をつぶすのか? 帰る場所がないからここで生きるしかない? それはおまえが決めることか?」
低く唸るような声でクレーメンスは捲し立てる。
「自分と同じだと思うなよ、与茂吉」
どん、と拳で胸をたたかれヨモはよろめき、壁にぶつかった。それに見向きもせず、クレーメンスはどこかへと行ってしまう。どういう意味だ? ぽかんとしてヨモは今の言葉を心の中で反芻する。
――自分と同じだと思うなよ。
その時、ふと脳裏に男の顔がよぎった。かつて医師であり藩士であった自分が仕えていた、生涯支えるはずだった男の顔だ。
危険を承知で彼と藩のために、ひいては国のために尽くしてきた。かの地に骨を埋めるのなら本望だった。しかし無慈悲にも彼は言った。国を出ろ、と。
決して許されないことだったが、彼を拳で殴った。着物を鷲掴み、ねじ伏せて唾を散らして喚いた。最後は床に額を擦り付け、情けなくも涙ながらに懇願したが、主人であり友のようでもあった男は言葉を変えなかった。
「国を出ろ。これは命令だ。わしは、おまえを――」
異国の貿易船に乗せられた瞬間を思い出す。行き先は伝聞上よく知る国であったが、正直どこでもよかった。この国で生きられぬなら、どこで生きようが、はたまた……
ごん、と金属の壁にヨモは頭を打ち付けた。まぶたの裏に閃光が走るような衝撃で思考が途切れ、じんじんとした痛みが側頭部から波紋のように全身に広がる。自分の気持ちとは裏腹に、無情にも生きていることを実感するような鈍い感覚だった。
「はあ~~~……」
深いため息をつきながらがしがしと少し伸びすぎた髪をかくと、ちらりと操舵室の扉を見た。中から声は聞こえないが、きっと船長は少年の申し出を受け入れたであろう。その選択は幸運なものであることを、ヨモは願った。のろのろと立ち上がり、ポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認する。そろそろ包帯にくるまれている少年に薬を与える時間だ。
「……何も決めたりしないさ。……私はただ」
そうだ、特別な理由なんてない。それより今やるべきことはひとつだ。なぜなら自分は、医者なのだから。
「私は、あの子を――」
もう一度扉に視線を向けると、ヨモは踵を返し、自分を待つ子の元へと向かった。