空が曇っていようとも
「ねえ。私たち、別れましょう」
汗をかいたコリンズグラスから目を逸らすことができなかった。とっくに氷が解けきったカクテルは、テーブルの上で揺らしても音のひとつすらしない。代わりに淵から上澄みがすこしあふれて、俺の手を冷たくした。
カウンターの向こうで顔を伏せ包丁を動かしている幼馴染も全身で語っている。「マジかよ」と。
「あなたも幸せを掴んで」
右隣に座っていた彼女は猫のようにするりとカウンターチェアを立った。ブーケのような華やいだ香りと高いヒールが床を鳴らす音が、背後を通り過ぎ遠ざかっていく。
幸運と言っていいものか、幼馴染の計らいで店内の客は店の奥のソファ席に集中していた。だからなんともみじめな俺の姿を目撃してしまったのは、目の前のその幼馴染だけだ。
「実はさ、前からおまえにあのコは似合わないと思ってたんだよ」
トン、と軽い音を立てて目の前に新しいカクテルが差し出された。琥珀色のブランデーが入ったグラスの淵の上にスライスレモンが寝かせられており、さらにその上に砂糖の山が鎮座している。店のメニューには載っていない、俺が台無しにしたい日の夜に飲みたいカクテル。ニコラシカ。
「……一緒に飲んでくれない?」
「そうしたい気持ちは山々なんだが……せっかく就いたこの職を失いたくないんだよなあ。前の店ならよかったんだけど」
ここ、お上品すぎてさ、と笑いながら、幼馴染はカウンターの上に仁王立ちして天井を持ち上げる熊を小突いた。
もう十分尽くしてもらったのにこれ以上無理をお願いするのも申し訳ない。俺は観念すると砂糖を包むようにしてレモンを折り畳み、口の中へ押し込む。かぶりと噛み締めると、痺れるような酸味と歯に沁みるような強烈な甘さが口いっぱいに広がった。
「これはどうする?もらってやろうか。俺、新しいネクタイが欲しかったんだ」
カウンターの下からターコイズ色の小箱を取り出し、器用に指先に乗せて、くるくると回しながら幼馴染は言った。タイミングを見て出してほしいと俺が預けていたものだ。
箱に絡んだ白いリボンが俺をあざ笑うようにゆらゆらと揺れている。けれども幼馴染の声音は砂糖のように甘く、優しかった。
いや、だからって売るなよ。ストレートのブランデーをぐっと煽ると、水分を含んだ砂糖の塊がどろりと喉を滑り落ちて行った。
涙がにじんでいるのは、きっと、置き去りにされたレモンの酸っぱさのせいだ。
***
「エリック!お疲れさん、休憩行ってきていいぞ!」
同僚に仕事道具の入った黒いショルダーバッグをあずけ、高台の上でぐっと伸びをした。シーウォールの先の水平線をぽつぽつと黒い豆粒のような船が行き交っている。帽子を脱ぐと、潮を孕んだ風がふわりと前髪をすくいあげた。
ここはポートディスカバリー。未だ発見されていない土地、未だ到達していない時代。未来のマリーナだ。そして、俺の職場でもある。
昼食を持ってレストラン脇の石階段を駆け下りる。訪れた人々を歓迎するかのように広がる絨毯に似た赤い地面を踏み締めると、そのまま右折してレストランのテラス席に向かった。飲食物は店内で買う決まりだが、俺はいつも出入り自由のテラスにニューヨークで買ったサンドイッチを持ち込み、昼食にするのが日課だ。
今日は天気がよいためテラス席はそこそこ混んでいるが、幸い奥の二人席が空いているのを発見した。手にしていたデリの紙袋をテーブルに置き、重い金属の椅子を引いて腰掛ける。立ち仕事で酷使した両脚を伸ばして、ネクタイを緩めて首元をくつろげた。
「……いい天気だなあ」
青々とした空に、羊の群れが駆けているかのように小さな雲が無数に浮かんでいた。ショップの屋根から突き出した風車のオールがゆったりと初夏の空をかき混ぜて、やわらかな風がファンファーレのような華やかなメロディを運んでくる。
誰がどう見ても、快晴。
それなのに、俺の心は正反対にどんよりと暗雲が立ち込めていた。それもこれも今朝の乗客のせいだ。
「僕と結婚してくれ!」
電車から降りた乗客の男は、ポートディスカバリーの地に降り立つなり、同伴者の女性の前に跪いて叫んでいた。
大きな旅行鞄に皴ひとつない高価そうなジャケットと帽子を身につけた男。その手の中では黒い小箱が開かれ、銀色の指輪が日光を味方にして二人を祝福するようにきらめいている。
女の方は派手な石のネックレスに邪魔そうなボンネット、動きにくそうな裾の長いスカート。ここがブロードウェイなら違和感はなかったかもしれないが、金持ちというワードを具現化したようなその二人は電車の窓越しからでも目立っていた。
そんな二人を今、同じ電車に乗っていた乗客も、駅で電車を待っていた人々も、固唾を飲んで見守っていた。
「君を愛している。二人でいつまでも夢を追い求めよう。必ず、君を幸せにしてみせるよ」
「ええ、ええ!もちろん……!喜んで」
女の承諾に口笛を鳴らすものがおり、拍手が起きた。男は立ち上がると世界一幸せだと言わんばかりに笑って女を抱きしめる。
二人が腕を組み駅舎を出ていく後ろ姿を、俺も手を鳴らして見送った。俺の溢れんばかりの笑顔は完璧だったはずだ。なのにどうしてか、同じくにこやかに笑みを浮かべた同僚が近づいてきて、ぽんと俺の背中を叩いた。
「無理すんなよ。大丈夫、おまえもまたいいコが見つかるって」
三年付き合った女に、プロポーズしようとしたその日に振られた男。
半年前の苦々しい話はみるみるうちに同僚たちに広まり、同情されるようになってしまった。腫れ物に触るかのような一カ月が過ぎたかと思うと、何を思ったか仕事仲間や行きつけの店の店員は、俺に新しい出会いの場を提供してくれようとしだした。そんな気になれず断れば、おまえは理想が高いのだと呆れられる。彼女は今、次の舞台の主演に抜擢され、美しい横顔をたたえたポスターが街のあちこちに貼られていた。
「あれだけの美人を逃しちゃあ、俺も一生落ち込むって」
そう言って慰めてくれるやつもいた。彼女が何度も何度もオーディションに挑んでは落ち、毎日のように泣いていた頃からの付き合いだ。落ち込んで当然なのだと。俺はそうだなと力なく笑うことしかできなかった。本当は彼女と縁が切れたことが、ショックだったわけではないのだ。
あの日のために、俺は随分と前から準備していた。指輪のサイズは、事前にこっそり盗んでおいた彼女のリングを店に持ち込んで合わせてもらった。幼馴染に頼みこんで、バーカウンターを貸し切らせてもらった。
挫折を味わいながら、それでもトップ女優になるのだと涙を拭って諦めなかった彼女は、とうとう主演の座の候補に選ばれたという。オーディションに合格したあとの方がタイミングがいいだろうかとも考えたが、今年の彼女の誕生日に指輪を送るというのは、去年から考えていたことだ。
稽古が忙しいという彼女に会うのは久しぶりだったが、店に入るなり再開を喜ぶ時間も惜しいと言わんばかりに、彼女は真っ赤なルージュを引いた口許をほころばせてこれまでの努力や奮闘を語った。そんな彼女のことが俺も誇らしかった。
けれども次第に話は俺の話題になった。
「あなたは、いつまでそんなことをしているの?」
彼女は呆れた声で言った。
「同じところを電車で行ったり来たり」
酒が回っていることは分かっている。
「あの高架の先には未来都市があるそうね。世界中から素晴らしい科学者が集まると聴いたわ」
それが俺に、どう関係するというのか。
「ねえ、あなたには夢が、ないの?」
いいや、あるさ! あったんだ! そして俺は叶えたんだ!
幼い頃からあの列車が好きだった。自分は将来あれに携わる仕事をするのだと、信じてやまなかった。そして描いた理想の真っ只中に俺はいるんだ。
それを俺は、話したじゃないか。何度も、何度も話していたじゃないか。君は、すごいわと笑ったじゃないか――……。
何も言い返さない俺に、つまらなそうに別れの言葉を告げて、彼女は去っていった。
一人になった俺に、バーカウンターの向こうで幼馴染はつぶやいた。
「残念だけど、変わっていくやつもいるよ。この街と同じで、別人みたいに」
ガス灯ばかりだった通りには電灯が増え、街が明るさを増した。地下鉄が開通し、自動車が普及し始めた。人々の生活ラインであった路面電車は時代遅れのものとなり、廃線となった。時代は切り開かれ、目まぐるしく多くのものが変化していく。
それはまるで大きな大河のようだった。そして大きな理想や夢を抱いた人々は、その大河へと飛び込んでゆく。激流に飲み込まれそうになってももがいて、しっかりと水を掻きながら、誰もがその流れに上手に乗って通り過ぎていく。
そして俺は足元を濡らすこともなく、岸辺の、同じところに立っているだけだった。この場所にいたいのだと心から望んでいたはずなのに、気がつけば同じように岸にいるのは、泳ぐことに失敗して項垂れている者や、馬鹿馬鹿しいと初めから飛び込むことを諦めている者だった。
そして河を行く人々は、そんな岸辺で立ちすくむ俺たちを、笑うのだ。
あれ以来、生まれ育ったニューヨークも、このポートディスカバリーも、なんだか、遠い。
田舎からやってくる起業家も、トップの座を夢見て舞台に立つ女優も、ふたりの夢を追い求めようとする恋人たちも、未来のために最新の研究に携わる科学者も。俺にはずっと、ずっと、遠いのだ。
「ストームライダー1、発進! ぶおぉん! ぶおぉん!」
楽しげに響く声が俺を現実に引き戻す。隣のテーブルで、旅行客であろう3人家族が魚料理を食べていた。見慣れない土地に興奮した少年が銀色の小さな機体を掴んで振り回して、両親が困ったように笑っている。
「こら、ちゃんとフォークを持って食べなさい」
「ママ、これ、もう一個欲しい! もう一個買って!」
「同じのを? ひとつで十分でしょう」
「はは、それならここへ来るときに乗ってきた電車にしたらどうだ? 赤い色、格好良くて好きだろ?」
「やだぁ、飛ぶ方がカッコイイもん!」
無邪気な子供は時になんと残酷なのだろう。それはそうだ。悔しいけれど飛ぶ方が格好いいにきまっている。空を目指すことは大昔から人間が描いてきた夢なのだから。
テーブルの上に置いた帽子のエンブレムが家族に見えないように、つつ、とさりげなく動かした。ああ、俺は何故こんなにも悲しくなっているのだろう。
少年が握りしめているあのストームライダーとやらは、どんなストームでも消滅させて、快晴へと変えてしまうらしい。俺の心も撃ち抜いて、雲を晴らしてくれないものだろうか……。そんな馬鹿馬鹿しい妄想をしながら、紙袋からサンドイッチを取り出して、かぶりつく。
塩気のある牛肉とチーズの味が口いっぱいに広がった。昔から変わらないこの味が、今の俺への慰めだった。
「なあ! 相席、いいかい?」
からりとした陽気な声が背後で響いた。混雑期の大テーブルはそんなこともあるよなあと寂しくサンドイッチをかじっていると、突然目の前に紙で包まれたパイが落ちてきた。はっとして顔を上げると、金に近いブラウンの髪を無造作に掻き上げた男が、にこにことこちらを見下ろしている。
「やあ。君、ここの上の人だろ? 悪いけどちょっとかくまってよ。」
ぽかんとしていると男は返事も待たずに無遠慮にゴリゴリと重い椅子を引いて、どっかりと目の前に腰掛けた。
若草を思わせるような淡いグリーンの生地に、大地のような茶色、大海原のように深い青のラインが一本ずつ。男が身を包んでいる制服はこのポートディスカバリーの中心部、気象コントロールセンターのものだ。
「おーい、聞こえてる?」
「……ああ、はあ。どうぞ……」
あまりの横柄さにあっけにとられて、つい容認してしまった。当然だが、俺に気象コントロールセンターなんて一流の科学者が集まる場所に友人はいない。全くの初対面だ。
「いやあ、口うるさい上官を持つと苦労するよなあ。そう思わないか?」
それなのにこの男は昔ながらの知り合いとでもいうように、パイの包み紙を剥きながら気さくに話しかけてくる。誰だ、おまえは。心の中で問いながらテーブルの上にぽろぽろと乾いたパイ生地のかけらが落ちるのを見守っていると、男は突然手を止めてジッとこちらを見つめてきた。今日の空のような澄んだ青い瞳がきらりと光る。
「おっと! オレ、君のこと知ってるぜ」
「あ、えっと……」
やはりどこかで会ったことがあるのだろうか。必死で記憶を巡らせるが、困ったことにまったく思い出せない。忘れているのならば、こちらが失礼ではないか。
「あの建物の一番高いドームの中にさ、ラウンジがあるんだ」
焦る俺を見かねたのか、パイをテーブルに置いて男はつい、と指をさした。その先には彼の勤務地であろう気象コントロールセンターが、オレンジがかった黄金色の丸い屋根を輝かせ、誇らしげにそびえている。
「ラウンジ」というのは一部の立派な建物の中に存在するらしいと聞いている。気象コントロールセンターのラウンジには、黄金のカードを持ったVIPだけが入ることができるともっぱらの噂だ。もちろん俺の勤務場所にそんなものはない。
「あそこから見下ろすとよく分かるんだ。ポートディスカバリーの様子がさ。で、オペラグラスを覗くとゲストを乗せた電車も、駅もクッキリ見える」
親指と四本の丸めた指で作った輪を両目に押し当て、覗くような仕草でこちらを見ながら男は言った。
「いつも楽しそうに仕事してる人だ!」
「……」
がっくりと力が抜けた。つい構えてしまったが、見たことがあると知っているではまったく別ものだ。俺の呆れも見てわからないのか、男は甘い香りのパイに向き直りおいしそうにかじっている。
なぜ見知らぬ男と同じテーブルで向かい合っているのだろう。そういえば、このヨットクラブを利用したレストランのスタッフは、みな栄誉ある気象コントロールセンターのスタッフらしい。ということは、この男からすれば自分のテリトリー内で過ごしているだけで、先にいたとはいえ場所を借りて休んでいる俺の方が部外者なのだ。そう思うと居心地が悪くなり、くつろげていた脚をちぢこまらせた。
いたたまれない気持ちが膨らむ前に早くどこかへ行ってくれないだろうか。視線を落としたままサンドイッチを食べるのを再開してみるが、観光客のはしゃいだ声や港に響き渡る音楽がやたらと大きく聴こえて押しつぶされそうな気持ちだ。気まずさに耐えかねていると、視界の端で男の指がこちらを向いた。
「それ。なんで手袋してるんだい?」
列車の業務に従事している者が手袋をしているのは決して珍しいことではない。しかし俺の職場の制服に手袋は含まれていなかった。それを知ってか知らでか指摘してきた男にすこし度肝を抜かれて、つい口が滑ってしまった。
「ああ、これは怪我を隠すために……」
「怪我?」
――しまった。仕事中の失敗談なんて人に話すようなものではない。ましてや相手は初対面の知らない男で、エリート揃いの研究施設に勤めているやつだ。こんな所で油を売っているからにはどうせ大した役職ではないのだろうが、それでも隙を見せたくはなかった。
返答に迷っていると男はハッとしたように目を見開き、わざとらしくパイを持った手で反対の手のひらをポンと叩いた。
「もしかして、乗客の頭を庇って怪我した?」
「な……、なんで分かったんだ」
こういうときに素直に答えてしまう自分の口が恨めしい。やっぱり、と男は口角を上げると言葉を続けた。
「うちの見習い研究員が言ってたぜ。電車に乗ろうとしたら入口に目のあたりをぶつけそうになって、とっさに駅員さんが手で庇ってくれたって。命の恩人だってさ」
つい一昨日のことだ。ニューヨーク行きの列車の乗客を誘導していると、その中に突出して身長の高い乗客がいた。自分以上に背が高い相手を見ることはめったにない。珍しく思って目で追ってみると、よそ見をして電車に乗り込もうとしている乗客の頭は、入口よりもこぶしひとつぶん高いところにある事に気がついた。ちょうど目線の高さの位置に……金属の上枠が迫っている。
あぶない! とっさに走り寄り電車と男の頭の間に手を差し込んだ。案の定、前に向き直った乗客は反応が間に合わず額の下あたりをぶつけたが、俺の手がクッションとなり無傷で済んだ。
俺の方はというと、人差し指から小指まで、第二関節のあたりの皮が派手に剥けたが、不幸中の幸いで骨に響くようなことはなかった。しかし包帯を巻くとなかなか大した怪我のように見えてしまい、これでは接客時に他の乗客を驚かせかねないので、隠すために手袋をはめていたのだ。
私服を着ていたため、あの乗客が気象コントロールセンターの職員であったとは気がつかなかった。あの時は何度も申し訳なさそうに頭を下げる姿に大したことはないと笑ったが、片手から血を流しながら言われても困っただろうなと後で反省していた。なにも手を出さなくても、帽子なり、かばんなりでかばえばよかったのだ。
「そんな大袈裟な……」
うまく立ち回れない自分の不器用さが浮き彫りになったようだった。恥ずかしくて、居心地が悪くて仕方ない。「命の恩人」なんて冗談でも笑えない。
しかし男はいやいやと真剣な面持ちで首を横に振った。
「科学者は目が命!もし運が悪かったら科学者生命に関わるも同然だ。うちの研究員を助けてくれて、ありがとな」
にっとパイのかけらが張り付いた白い歯を見せて男は笑った。その表情には揶揄も、蔑みも含まれていないように見えて、面食らった。
「……仕事だよ。好きでやってるだけで、いちいちそんな難しいこと考えて行動してないって」
自分でも卑屈な返事だと驚いたが、本当だ。とっさに行動しただけで、そんなに褒め称えられることをしたつもりはない。
「ふうん」
俺の視線に気がついたのか、男は歯を舌で拭うように口をもごもごとして続ける。
「羨ましいよ。君はここを訪れる人を一番最初に迎えることができるだろ? 観光客がどんな顔してるのか気になってオペラグラスで覗いても、みんな背を向けてるから見えなくてさ。でもなんとなく分かるぜ。きっとこっち向いて仕事してる君と、同じ顔してるんだろうなって」
――楽しそうに仕事してる人だ。
先程言われた言葉を心の中で反芻する。
たしかにそうだ。あの電車に乗ってこの港へやってくる人々は、これから訪れるであろう驚きへの期待に胸を膨らませて、みな一様に笑顔だ。
俺も、あんな顔をしているのだろうか……いや、きっと、しているのだ。なぜなら。
「好きなものと仕事するのって、楽しいよな!」
「……ああ」
そんなこと言われなくても、自分が一番分かっている。分かっていたはずなのに、胸に何か熱いものがこみ上げてきて、必死に押し留めた。
「それでさ、傷は大したことないのか?」
「あ……ああ。まあ。金属で丈夫だし、赤いから血がついても目立たないさ」
「んっ?」
「え?」
パイの最後の一口を堪能しながら男はきょとんとして俺を見た。やがてこぼれ落ちるのではと思うくらい大きく目が見開かれたかと思うと、突然のけぞって大声で笑い出す。おこぼれを求めて地面を彷徨っていた軽鴨たちがバサバサと翼を広げて逃げていった。
「電車の方じゃなくて! その手!」
「あ、ああ……!」
手袋の下でぐるぐる巻きになった手を摩る。なぜ自分は電車の心配をされていると思ったのだろう。抑えたものが胸から回ったのかぼっと耳が熱くなったが、不思議と笑われて腹立たしい気持ちにはならなかった。
男の笑い声につられて、俺も喉を鳴らして笑った。こうして笑うのは久しぶりな気がする。
ひとしきり笑うと男はおかしそうに目元をぬぐいながら、そういうの見習わなきゃな、とつぶやいて店の外に視線を向け、何かに気づいたように目を細めた。
「さて、そろそろ出番かな。じゃあな、えーと、ロイズマン?」
乱暴にテーブルの上の食べかすを手で払うと、急に男は立ち上がった。名前を呼ばれてドキリとしたが、ネームタグをつけているのだから当然だ。
「俺はデイビス。午後も頑張ろうぜ。オーバー!」
平らにした右手を額に当てて大袈裟に敬礼すると、ひらひらとその手を振って男は去っていった。あれは俺たちの挨拶の真似だろうか。けれどその軽薄そうな挨拶はいかがなものだろうかと少しむっとした。
「……オーバーってなんだよ」
まるでストームのような男だった。自分は目の中に平気な顔で居座って、周囲のものを引っ掻き回して、川底から水を巻き上げすっかりあたりの様子を変えてしまうような。
ちっとも休んだ気がしない上にまだ休憩を終えるには早かったが、なんだか早く戻って電車を見たかった。残りのサンドイッチを口に押し込むと、帽子をかぶり直して空になった紙袋をくしゃくしゃと丸める。気づけば隣の3人家族も食事を終えたようで、身支度をしていた。
通路は狭いので、家族が先に行くのを待ってから席を立つと、視界の端にきらりと何かが光った。少年が振り回していた小さな飛行機に似たおもちゃがぽつんと置き去りにされている。
慌ててそれを掴み、テラスを出ようとする家族を追いかける。
「すみません! 忘れ物ですよ!」
「まあ、すみません。ありがとうございます」
母親に続いて振り返った少年が、あ、と口を開けている。少年の前に屈み目線を合わせて忘れ物を差し出すと、少年は大切そうにそれを胸に抱きしめてこちらを見た。
少年の視線が俺の頭の上で止まる。何かに気づいた様子でぱっと笑うと、少年は手のひらを狭い額に当てて叫んだ。
「いってらっしゃい! カンカーン!」
エレクトリック・レールウェイの出発を知らせる、鐘の音。
ありがとうございますでしょうと母親は無理やり少年の頭を下げさせていたが、つたない子供の声で再現される聴き慣れた音程は、感謝の言葉より容易く俺の心臓を高鳴らせていた。
家族に別れを告げて、赤い絨毯を踏み締める。
レストランの入り口の前に置かれたベンチで、今朝のカップルが手を握り合って寄り添っていた。目の前を通り過ぎながらそっと視線を向けると男が照れ臭そうに笑っている。
「本当は君の生まれたニューヨークを見下ろしながらプロポーズするつもりだったんだ。けれど君があまりに車窓からの眺めに夢中になっていたから、つい僕もはしゃいでしまって」
レストラン脇の石段を一歩一歩登りながら空を見上げた。
気がつけば空を駆けていた羊は頭数が減り、灰色を帯びた厚い雲が東からやってきている。この土地は天候が変わりやすいのだ、じきに雨が降るかもしれない。
それでも俺の心には、さっきの男の瞳のように澄んだ青が広がっていた。
ああ、それにしても――
「デイビス……。どこかで聞いた気がする」
最後の石段を登りきり、高台の上で伸び上がる。黄金の屋根を輝かせる研究施設の通信を乗せて、やわらかな潮風がいたずらのように耳の横をくすぐり逃げていく。
――キャプテン・デイビス、至急、パイロットルームに――キャプテン・デイビス、至急――
俺は危うく石段を踏み外して、足にまで包帯を巻くところだった。