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​たとえ世界が交わらなくても

「あなたは、大丈夫です」
 彼の前に躍り出ると、端末を取り出した手を掴んで止めた。
 戸惑った様子の彼に、可能な限り優しい英語で力強く繰り返す。
「あなたは大丈夫です。絶対に」
 東洋人らしい焦茶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「この先どんな壁にぶつかろうと、どんな選択をしようと、あなたには絶対によい未来が待っています。俺には分かります」
 急かすように電車の鐘が鳴る。見れば同僚が運転席の窓から顔を出してこちらを見ている。
「……いつかまた、お話しましょう。ここでお待ちしています。その時はきっと機械なしで……直接話せたらいいですね」
 名残惜しく思いながら手を離し、指先をそろえて帽子の前に掲げた。
 最後の言葉は彼には伝わらなかったかもしれないが、わずかに彼は頷いて電車に乗り込んだ。
 ガタガタと音を立てて扉が閉まり、再び鐘の音が鳴り響く。
 走り出した電車の窓越しに、こちらを見つめる彼に大きく手を振った。彼は手を振り返すことはなく静かに俺を見ているだけだったが、俺は電車が見えなくなるまで、手を振り続けた。
 
  1

 
 生きていると不思議なことがあるものだ。例えば、このニューヨークがストームという気象現象をコントロールする未来の世界と、一本のレール――いや、正確には走行用が四本に給電用が二本の計六本なのだが――で、繋がるとか。
 もちろんはじめは街中の騒ぎになった。ニューヨークの住民も、市外からやってきた観光客も、大勢が小さな駅舎に押し寄せた。俺たちは駅舎の煉瓦の壁を未来の港の広告で飾り、看板を新調して入口を飾った。
 あれから幾年が過ぎ、いまやこのエレクトリックレールウェイはあたたかな黄金色を纏う未来のマリーナ・ポートディスカバリーへ行くための当たり前の手段となっている。そのはずだった。
 
「……な、なんだあ? どうなっている!?」
 運転手である同僚の気の抜けた声で、進行方向を振り返る。
 今朝の俺たちはいつものようにニューヨークの駅舎に集まり、朝礼を済ませて車庫から車両を引っ張り出し、数人で乗り込みポートディスカバリーへと向かっていた。ポートディスカバリー駅の職員もみなニューヨーク在住だ。一日のはじまりに、その日の担当者数人だけが電車に乗って未来の港へと移動し、朝の支度を行う。
 本来ならばごく短い時間で、気象コントロールセンターの銅色に近い黄金色の屋根が俺たちを出迎えてくれるのだが――
「……青い」
 窓に張り付いて見下ろす先には航海システムの研究施設。そこに青緑色の小さなウォーターウィーグルが並んでいる。ここまではいつも通りだ。
 しかしその向こうに見える気象コントロールセンターの……気象コントロールセンターであるはずの建物の屋根が、青い。
 よく見れば屋根の上に立つたくさんのアンテナは旗になっている。
 シャッターがあった場所には鮮やかな魚や亀などの絵が描かれている。
 いや、それだけではない。
 デッキにも見慣れない屋根ができている。
 ショップの上には風力発電用の風車の代わりに、なんだかよくわからない巻貝のような金属のなにかがくっついている。
 車両が駅舎に滑り込むと同時に全員で扉を飛び出し、高台に出て駅名を確認した。
「……ポートディスカバリー……って、書いてあるよな?」
「おい、あの看板のところ、あんな青かったか?」
「一晩で模様替えでもしたのかしら……?」
 昨日働いていたときは何も変わりなかったはずなのに、いったい何が起きているというのか。混乱する俺たちは互いの顔と眼下の港を交互に見回した。
「どうする? いったんニューヨークに戻るか?」
「いや……まずはここが何なのか調べたほうがいいんじゃないか?」
「ねえ、もし戻ったとして、またここに戻ってこられる? ……というか、ニューヨークにも戻れるの?」
「それは……」
 そこにいる誰もが黙ってしまった。
 いつものポートディスカバリー以外の地に到着するなんて話、聞いたことがない。一刻でも早く見知ったニューヨークへと戻り情報を共有したいが、戻るのがはたして正解なのか、ここにいるのが安全なのか、誰にもわからなかった。
「……とりあえず、いつも通り動かないか。ひとりは車両を戻しに行く。ひとりは港の様子を見に行く。残りは……乗客を迎える準備を」
 根拠のない提案だったが、皆黙って首を縦に振ってくれた。俺たちの仕事は乗客を目的地まで送り届けることと、乗客を迎えることだ。電車が動きその先に到着地点があるならば、仕事を全うしなければならない。
 話し合いの結果、運転してきた同僚が再び電車を走らせニューヨークへ戻ることになった。「必ず迎えに来るから」という彼の言葉に強くうなずきながら、ゴトゴトと音を立てる赤い背中を見送った。
 俺はというと残りの同僚に駅を任せて石階段を降り、赤い地面を踏みしめた。
「……レストランは、いつも通り」
 まだ店は閉まっているが、ガラス越しに見る限りヨットクラブを改装した憩いの場は変わりないようで、ほっと胸をなでおろした。しかし高架の下に吊るされたペナントは見知らぬ波模様で、安心している場合ではないぞと現実を突き付けてくる。
 見知った土地であるはずなのに、何かが違う。その違和は足取りを重くさせたが、研究施設やショップの立地は同じようで、迷うことなくこの土地の要であるドーム屋根の建物にたどり着いた。
 早朝の港はひと気がなく、波の押し寄せる音だけが穏やかに漂っている。本日のストームの来訪はなさそうだ。シャッターがあったはずの外壁を見上げると、施設の名前らしきものが書いてあった。
「海洋……生物……研究所?」
 海の生き物について研究しているというのだろうか。
 では、自然災害の観測をしているあの研究施設はどこに?
 眩暈を覚えて、目頭を押さえて俯く。あのパイロットである友人ならば何か知っているかと思ったのだが、ここには不在なのだろうか。
「朝早くからお疲れ様です! 何かご用ですか?」
 明るい声が背後から響いて肩が跳ねた。人がいることに気が付かなかった。慌てて振り返ると、青と黒を基調とするピッタリとした服を身にまとった女性がニコニコとこちらを向いていた。キャップ帽に建物と同じロゴが描かれている。
「……っ、ここの施設の人ですか!?」
 申し訳ないことに自分でも想定外の大きい声が出た。女性は一瞬ビクッと体を強張らせたが、すぐに気のよさそうな笑顔を浮かべてうなずいた。
「もちろんそうですよ。お兄さんはエレクトリックレールウェイの人ですよね? まだゲストが来るには早い時間ですけど、何かありました?」
「……あの電車をご存じなんですか?」
「ええ? はい。だって、ずっと昔からあるじゃないですか。私がここに配属になった時にはもうありましたけど」
 エレクトリックレールウェイを知っている?
 それも、昔からあった? 俺たちは初めてここに来たのに?
 ここがどこなのか、何が起きているのか確認したかったのに、なにを当たり前のことをと笑う相手にどう聞けば知りたい答えが返ってくるのだろうか。
 とにかく何か情報を聞き出さなければと焦る俺の耳に、聞きなれた金属音が届いて心臓が跳ね上がった。
 二両編成の赤い電車が高架を渡って、こちらに戻ってくる。
 発車時に鳴らすはずの鐘がけたたましく何度も何度も打たれて、港中に響き渡った。気がつけば青い制服を着た職員たちが周囲で作業を始めており、どうしたのかと駅のほうを見上げている。
「壊れた目覚まし時計みたい……やだ、お兄さん! ちょっと、大丈夫ですか?」
 電車が戻ってきた。足の力が抜けてその場に座り込んだ俺の背中を、能天気そうな女性が乱暴に擦ってくれた。
 
 あれから数ヶ月。現在どうなっているかというと、エレクトリックレールウェイはニューヨークと、ふたつのポートディスカバリーの間を行き来している。
 あの日、状況が掴めないまま普段通り仕事をこなして、無事にニューヨークに戻った俺たちは上司やほかの同僚と話し合ったが、誰もあの青い未来の港を知るものはいなかった。
 ひとまず翌日の様子を見て検討しようという話になり落ち着かない気持ちのまま翌朝を迎えたが、その日に到着したのはなんら変わりない気象研究をしている暖色の未来の世界だった。
 かと思えば、次の日はまた青い港だった。
 日替わりかと思いきや、また次の日も青い屋根が俺たちを迎えた。
 現場は大混乱だったが、次第に慣れ、日を重ねていくと次はどちらの未来へつながるのかという予測ができるようになってきた。狭い駅舎で情報を突き合わせてうんうんと議論を重ねた結果、とうとうその法則を導き出すことに成功した。
 この間に分かったことがいくつかある。まず、どちらの未来のマリーナにも中枢となる研究施設が存在し、港全体がそれぞれ気象研究、海洋研究に特化しているということ。その土地の研究施設やショップの人々も、ほとんどがそのメインとなる研究施設の職員だった。
 ふたつめ。異なる港の専門分野は研究対象外だということ。例えば海洋生物研究所のある未来には、甚大な被害をもたらすストームは到来しない。そして気象コントロールセンターは、一部海洋の研究も行っているというが、あくまでも気象研究の一環であり、海を調べることが目的ではないらしい。
 そして最も重要なことだが、未来の港の住民はもう一つの未来の港を知らない。例えば海洋研究を行っている研究施設の住民に「気象研究をしているポートディスカバリーを知っているか?」と聞いても首を傾げられるか笑われるかのどちらかだった。その逆も同様で、どうやら異なる未来を観測できているのは俺たちエレクトリックレールウェイの職員だけのようだ。
 この事実に俺たちは一番頭を悩ませた。異なる世界をつなぐ役目を負う者として、責任を持って世界の均衡を守らなければならない。
 話し合いの結果、ポートディスカバリーが全く別の世界線にふたつ存在するということは、この二〇世紀初頭のニューヨークと未来をつなぐ電車の職員内での機密事項となった。
 そうやって人知れず独自に調べ上げた法則にのっとって、職員たちはシフトを決めて鉄道業務の対応を行っている。なんとも不思議な話だが、はじめて未来と行き来ができるようになった日の驚きを思えば、ささいなことかもしれない。


  2


 いつもなら俺はオレンジ色の港を拠点として勤務するはずなのだが、故郷に住む妹に子供が生まれたという同僚の喜ばしい報告を受け、しばらくの間代わりに涼しげな色合いの未来の駅で仕事をすることになった。
 腰を抜かしたあの日から何度か訪れてはいるものの、長期的に務めるのははじめてのことだ。とはいっても業務に大きく変わりはない。笑顔で乗客を迎えて、笑顔で送り出す。今日のような夜遅くまで働く日には、ニューヨークに帰る乗客がいないか最終チェックをして、駅舎を閉め、朝と同じく職員だけで電車に乗り込みニューヨークへと戻る。こちらの世界は天候が安定しているだけあって、運航の休止や乗客の傘の有無を心配しなくていいのはむしろ楽かもしれない。
 その日の晩、乗客を乗せたニューヨーク行の最後の便を見送って、研究施設にまだ見学しているゲストがいないかを確認するため高台を降りた。
「レストランは……閉店済みっと」
 日没後の独特の、しめり気のある潮風が鼻孔をくすぐる。ストームが大量発生する平行世界も温暖な気候だが、こちらの世界も比較的あたたかい土地であるようだ。
 別の世界ということは、地球がふたつあって、それぞれに未来の港が存在しているということなのだろうか。それであれば、俺の住むニューヨークにも、よく似た平行世界が存在するのだろうか。ならば俺の住む世界は、本来どちらの未来と同じ地球に存在するのだろうか。
 開けた空を仰げば、無数の星が瞬いていた。
 昔はこんな小難しい夢物語を考えたことはなかった気がする。昔からニューヨークと、この職に就いて働くことだけが俺にとっての世界のすべてで、夢だった。
 いつしかこんなにも広く世界が見えるようになったのは、いつからだろうか。電車がニューヨークとつながったときだろうか。いいや違う、たぶん幾年前に話したのがきっかけだ。沈んでいたころ、あの開けたレストランのテラス席で、あの
「パイロット……」
「はい?」
「……じゃなくて、ゲストはもう全員お帰りですか?」
 咳払いをして、研究施設につながる橋の入り口できょとんとする研究員に話しかける。
「ええ、さっきの団体で全員ですよ。アクアトピアの人たちもこれで全員……」
 朗らかな笑顔で周囲をぐるりと見渡した彼女はハッとした様子で動きを止めた。
「いえ、いえ! あのベンチに座ってるのってゲストじゃないですか!? ちょっとお待ちを!」
 バタバタと航海技術の研究施設の方へと走っていく背中を苦笑いで見送る。この地は自然の驚異とは程遠いが、どこか違った賑やかさがある。
 取り残された俺は彼女が戻るまで、俺は船舶が停泊するデッキを歩くことにした。
 様々な姿かたちをしたそれらは、もうひとつの未来では海洋を探査するものであったり海底レースの試験用の船であったりするらしいが、この世界でも同じなのだろうか。穏やかな波が船体にぶつかりちゃぷちゃぷと音を立てている。
 ふと、デッキの向こうに空を見上げる人影があることに気がついた。
 明かりの少ない橋の上ではよく見えないが、頭にかぶった帽子の形からおそらく海洋生物研究所の社員であろう。声をかけようかと近づいて、おやと目を見張る。人影まで思ったよりも距離がある。近くに感じたのはどうやら相手の背が高いからだ。
 どくん、と心臓が脈打った。おそらく相手は自分よりも背が高いだろう。体格もがっしりしている。
 自分よりも背の高い男を見るのは珍しかった。そして、そのシルエットには見覚えがあった。
「……五十嵐さん?」
 目を凝らしながら声をかけると、ゆっくりと人影はこちらを振り返った。アーモンド形をした目が俺の顔を捉える。
 動揺したように何度か瞬きをして、彼は困ったように眉を下げた。

 

  3


 五十嵐健士郎。彼に始めて出会ったのは二年以上前のことだ。
 いつものようにオレンジ色がきらめくポートディスカバリー駅で仕事をしていると、ひときわ背の高い乗客が列車を待つ列に並んでいることに気がついた。
 短く切りそろえた黒髪にアーモンド形の瞳。見たところ日本人のようだが、欧米人の中でも背が高い自分よりも身長がありそうだ。その上体格がよく、大きな肩幅をさらに広げるようにがっちりとした筋肉が両腕についている。
 珍しく思い、ついじっと見てしまった。突然男がこちらを向き、目が合う。
 驚いたように揺れた男の瞳から、俺は慌てて視線を逸らした。お客さんをじっと見てしまうなんて失礼だ。
 反省しながら駅舎に到着した電車の扉を開け、乗客を出口へと案内する。反対側の扉からは同僚に誘導されて新たな乗客が乗り込んでいく。先ほどの男もこの車両に乗るだろう。
 ふと列に目をやると、またしてもあの男と目が合った。
 今度は男の方が先に慌てた様子で先に視線を地面へと逸らし、列に続いて車両の入口に向かっていく。
「……あぶない!」
 男は足元を見ていた。長身の目線の高さに、電車の入り口の、金属製の上枠が迫っている。
 咄嗟に駆け出して、俺は彼の目元を手でかばっていた。
 
 それから五日経った晴れた日のこと。男は突然駅舎を訪ねてきた。
「すみません、お仕事中の所……あの、俺のことを覚えていますか」
 事故があった日ような私服姿ではなく青緑とカーキ色の制服に身を包んだ彼は、片手に紙袋をぶら下げて、大きな体格をこじんまりさせていた。ちくちくとした黒い短髪がこの前よりも低い位置にある。
 一瞬威圧感を感じる大柄な体つきだが、背を丸めているせいか丁寧な言葉遣いのせいか、見た目よりも小さく感じる。
 あの日男は額の下あたりをぶつけかけたが、幸いにも俺の手がクッションとなり無傷で済んだ。代わりに男の頭と金属製の枠に挟まれて打ち所が悪かった俺の手は派手に出血し、ちょっとした騒ぎになった。
「もちろん、覚えていますよ。研究所の方だったんですね。あの後痛みが出たりしませんでしたか」
 駅舎の向かいのベンチに男を促しながら、仕事の調子で元気に肯定してはっとする。委縮した様子の彼が「そうですよね……」と小さくつぶやくのを見て、慌てて両手を振った。
「いえ、すみません! そういう意味では……! 私も大したことありませんよ。ほら、もうほとんど直りましたから」
 男の隣に座ると、嵌めていた手袋を外して、手の甲を彼に向ける。
「……あの、傷跡を見せられると余計に心が痛むんですが……」
「う、す、すみません……」
 昨日までは包帯を巻いて傷を保護していたが、治りがよいので今日からは手袋で保護するだけにしていた。それを伝えたかっただけなのだが、怪我の原因を作ってしまった本人からしたら当然いい気分ではないだろう。
 すごすごと手袋を嵌めなおしていると、突然勢いよく男がベンチから立ち上あがった。驚いて見上げる間もなく、彼はこれでもかというほど深々と頭を下げてきた。
「ありがとうございました。あなたは俺の命の恩人です」
「ぶふっ!」
 昔話か、と突っ込みたくなるような表現に思わず吹き出す。
「やめてください、そんな、大げさですよ!」
「いえ、本当に」
 がばりと勢いよく男が顔を上げる。その表情は真面目そのもので面食らった。黒々とした目に真っすぐ見つめられて、なんと答えるべきか戸惑う。
 視線が泳ぎそうになったが、その前に再び男が隣に腰かけた。
「……えと、俺、あそこの研究所で働いているんですけど、まだ見習いなんです。周りの研究者の人らがすごくって……。取り柄が視力のよさと手先の器用さくらいで、細かい作業の時は重宝してもらってるんですけど。だから目をやったら、マジで能無しっていうか。だから、ありがとうございます」
 意外と砕けた話し方をするんだなと思った。いやそれよりも、男の言葉に驚いた。
 本当は失敗したと思っていたのだ。自分は怪我をして相手に罪悪感を抱かせて、もっとよいやり方があっただろうと後悔していた。自分の不器用さを悔いていたのに、どうやらちゃんと相手の助けになっていたらしい。
 つん、と鼻の奥が痛むのを俯いてごまかした。
「……ありがとうございます」
「え、何がですか」
「あっいえ……、わざわざそれを言いに来てくれたんですね」
「ええ。あ、これ、どうぞ皆さんで。こっちの人洋菓子は食べ飽きているかと思って、実家から送ってもらいました。それで来るのに時間がかかってしまって……日本のおせんべいってやつです」
「おせんべい。知ってますよ、最近こっちのショップでも見かけるようになったので。本場のをいただくのははじめてです。ご丁寧にすみません、ありがとうございます」
 最近ではニューヨークや、このポートディスカバリーにも多くの日本人観光客が訪れる。その好みに合わせてか、日本になじみ深い菓子も土産物販売店で見かけるようになっていた。
 差し出された見舞いの品を受け取って、膝に乗せる。日本語には疎いが、筆で描いたような仰々しい文字が深緑の紙袋に印刷されていた。
 見慣れない文字を見て、そういえば彼の名前を聞いていないことに気が付く。
「名前をうかがっていませんでした。俺はエリック・ロイズマンです」
「あ……五十嵐です。五十嵐健士郎。日本の漢字で、五十の、嵐って書いて五十嵐です」
「五十の……。すいません、漢字には詳しくなくって……」
「あ、こういう文字です」
 いかにも未来的な見慣れない端末をポケットから取り出すと、五十嵐さんはその上で素早く指を滑らせた。
 光る板状のそれを向けられると、彼の名前らしい小さな漢字の文字列が並んでいる。俺はそれにぐっと目を近づけて眉間にしわを寄せた。
「な、なるほど……?」
「すいません、わかんないですよね……」
「たぶん、三つそれぞれが意味を持つ単語なんですよね? 五十の嵐って、なんだかこの土地にぴったりですね」
 ここでは頻繁にストームが発生する。まさにそれを表すような名前ではないか。少し感動を覚えていると、いそいそと端末を戻しながら彼は言った。
「よく言われます。けど本当は海洋工学システムが専門なんで、気象研究はからっきしなんです」
「海洋システム工学……?」
「……すごくいい船をつくる、的な……」
 聞けば聞くほど彼は俺の想像もできないような難解な研究をしているようだった。
 五十嵐さんは日本で大学院まで通い、自主研究が認められて第一志望の大手の造船企業に就職が決まっていたらしい。しかし自分の見分を広げるためにこの未来のマリーナへ来たということだった。
 そんな意識高いことを語られては、いつもならつい委縮してしまうところだったが、真面目で固そうに見えて意外と砕けた印象の五十嵐さんは、不思議と話がしやすかった。
「大変でしょう。故郷から離れて、言語も環境も違うのに一心に研究を続けて。俺には真似できません」
「まあ、そうですね。挫折もあったし周りに頼ってばっかですけど……応援してくれた人がいるんで」
 表情の固い彼の目元がふっと緩んだ気がした。彼が想うのは故郷にいる家族だろうか。それとも、大切な人だろうか。
「それは、きっとその人も喜んでいるでしょうね」
「……そうだといいなと思っています」
 歯切れの悪い返事とともに、瞼が伏せられる。その相手がこの世にはいないことをなんとなく悟って、唇を引き結んだ。

   4


 それから五十嵐さんとは顔を合わせれば挨拶をするような関係になっていた。
 じっくりと話すことこそなかったが、同じ港で働いていると頻繁に出会う。テラスで昼食を取る際に席が近かったりとか、彼が列車を利用することもあった。それから、今日のように最後の乗客を送り届ける際の最終チェックのときなど。
 
 だから見知った彼を見間違うはずがなかった。目の前にいるのは、紛れもなく五十嵐さんだ。
 しかし彼がここにいるはずがない。なぜなら一方の未来の港の住民は、もう一方の未来の港を知らない。それが俺たちエレクトリックレールウェイの職員らが導き出した答えだった。つまり、別の世界の彼が、こちらの世界にいるわけがないのだ。
 しかし、それはあくまでも推測でしかなかった。誰もこの世界の均衡については説明をしてくれない。俺が二つの世界を行き来できるように、彼にも可能だという可能性がある。俺と同じ彼が驚いた顔をしているということは、そういうことではないだろうか。
「まさか、こんなところでお会いするなんて! 驚きましたよね。どうやってこちらに?」
 一歩距離を詰めながら話しかける。いつもなら彼は、「びっくりですよね」とか、感情が分かりにくい淡々とした声色で答えるだろう。
 しかし五十嵐さんは、俺から目を逸らした。もごもごと聞き取れない言葉を発した後、周囲に視線をさまよわせている。
「えっと……」
「すみません! ゲストではなくて研究員でした~!」
 まるで他人のような態度の男に戸惑っていると、軽やかな声が沈黙を突き破った。先ほど飛んで行った女性研究員だ。
 駆けてきた彼女は、はたと俺と五十嵐さんの前で足を止めた。俺と彼の顔を交互に見てあっと口を開く。
「すみません駅員さん! 新人くん、英語話せなくて。今勉強中なんですよ!」
 背の高い五十嵐さんの脇に立って背のびをすると、彼に向かって別の言語で何かを話す。内容はわからないが、それが日本語だということは分かった。
 彼女の言葉を聞き終え、彼は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
「よろしくおねがいしますって言ってます!」
 にこにこと彼女が言う。本当によろしくという礼なのだろうかと疑問に思いつつ、よろしくと彼に投げかける。
 また困ったように目を泳がせる彼は、その不安げなふるまいを除けば、やはりどこからどう見ても五十嵐さんだった。

  5
 
「はあ。なるほどねえ。あっちの世界の研究員が、こっちにもいると」
「そうなんだよ。けど、どうやら俺のことを知らないらしい」
 風通しのよいテラス席で、正面に座る男は俺の話を興味深そうに聞きながらぼりぼりとピーナッツを頬張っている。
 こちらの世界での知り合いは少ない。更にこの世界の理について話ができる相手は限られるが、この男だけは唯一踏み込んだ話ができる相手だ。昨日出会った五十嵐さんについて、彼ならなにか知っているかもしれない。
「そうだなあ、本当にこういうことかはわからないけどさ」
 彼はスナック缶からピーナッツを二つ取り出し、テーブルに転がした。それを二本の指で摘んで目の前に並べている。
「このピーナッツは確かに二つあるけど、よく似てるだろ。世界だってそっくりなものが複数あるのさ。で、そっくりな世界が存在が存在するなら、生命が生まれる環境だってそっくりってことだ。同じような命が誕生して同じように成長する。それでよく似た人物が存在したってなにも不思議じゃあない。ま、ちょっと色は違うかもね。……これじゃあ納得できない?」
「そんな偶然があるか? いくらなんでも非現実的すぎじゃないか?」
「うーん。ま、君の時代じゃあ馴染みがないもんな。時空超えてきたゲストや研究員なんかには割とポピュラーな話らしいんだけど。こういう本とか映画とか」
 時空を超えるだけでも驚きなのに、ポピュラーであってたまるか。そう悪態をつきたくなったが、よく似ている別世界の別人だという説明は腑に落ちる。
 腕を組んでぐるぐると考えていると、目の前の男は世界に例えたピーナッツを口に放り込んでぼりぼりと嚙み砕いた。ついその姿をじっと見ながら口を開く。
「というか、そういう君はどうなんだ?」
「俺?」
「君はそのそっくりさんってのとは違うんだろ?」
 彼は空色の瞳を天井に向けて考えるようなしぐさをした後、わざとらしく耳に手を当てた。
「え? なんだって? よく聞こえないなあ」
「またそれだ!」
 踏み込んだ話ができると言ったが、俺の知らないことを明かしてくれるわけではない。目の前の男は確かに俺の友人だったが、よく見知っている姿とは少しだけ違った。
 彼にはじめてこちらで出会ったのは、この世界を知って間もないころだ。休憩時間に高台を降りたところで偶然すれ違い、思わずあっと声を上げた俺に彼は一瞬振り返って、「シィッ」と悪戯っぽく笑った。
 以降何度も説明してくれるよう尋ねているのだが、彼曰く「ハッキリしないほうが面白いこともある」らしい。
 うなりながら頭を抱えてテーブルに突っ伏すと、友人はハハハと笑った。
「それでは調査の準備がありますので、そろそろ失礼いたします。またお会いしましょう」
「……その口調、まだ慣れないな」
「まあまあ、そう言うなって。こっちじゃこれが普通なんだ」
 彼は立ち上がって青い波模様の帽子を深く被った。つばが顔に影を落とし、表情が見えなくなる。
 じゃあなとひらひらと手を振る背中に、テーブルに肘をついたまま手を振り返しながら思い出す。
 向こうの世界の五十嵐さんは英語が話せて、難なく意思疎通ができていた。こちらの彼はそれができないというが、よく似た世界でも色合いが違えば性格やスキルも違うのかもしれない。
 複雑な世界の構造に無理やり納得しながら頭の中を整理する。なんとか理解はできたが、脳裏には五十嵐さんの不安げな表情が張りついたままで、心をもやもやとさせていた。


 その日の晩。今日も最終ゲストを確認するため俺は海洋生物研究所の前に向かっていた。
 いつもなら入り口の付近に数人の研究員がいるのだが、今は無人だった。どこかに人陰がないかと見渡してデッキの先に大柄なシルエットを見つける。五十嵐さんだ。
「こんばんは」
 灯りの少ないデッキでゲストを整列させるためのロープを回収している後姿に挨拶する。会話ができないとわかっていても声をかけずにはいられなかった。
 振り返った五十嵐さんは、あっと口を開けた。するとなにやらポケットを弄って板状のものを取り出した。
「それは……」
 はじめて向こうの世界の彼に見せられたときはなんだか分からなかったが、今の俺はそれを知っている。スマートフォンというやつだ。人気の観光施設とか見学ツアーでは、あれを使ってゲストが予約券を取るらしい。
 五十嵐さんは何度かそれに指先で触れた後、ずいっと俺の前にかざしてきた。暗闇で煌々と光るそれには文字が書かれている。おそらく日本語。その下の四角で囲まれた部分には、英語が。
――まだゲストが残っています――
「おお……!」
 思わず感嘆のため息が漏れた。おそらくこの装置が彼の言語を翻訳してくれているのだろう。なんて便利なアイテムなんだ。俺が読み取ったのを確認すると、彼はまた端末を何度か弄る。
――直前に少しトラブルがあったので、対応に遅れが出ています。少し時間がかかるかもしれません――
 理解したと伝わるように、俺は彼の目を見て大げさに首を縦に振る。彼もうんうんとうなずき返してくれた。
 もともと向こうの彼も無口な方だった。だからこうして見ると、制服は違えど俺の知っている五十嵐さんそのままだ。先日は確認しそびれた名札に目をやると、やはり書いてある。〝IGARASHI〟と。視線に気が付いたのか、彼はまた端末を操作した。
――イガラシケンシロウです。この前はこれを持つのを忘れていて、話ができなくてすみません。っていうか、俺の名前知ってましたよね。どこかでお会いしましたっけ――
 しまった。そういえばこの前は見知った彼だと思って名前を呼んでしまったのだった。
 誤魔化そうと口を開いたが、俺の言葉は彼に伝わるのだろうか。高性能なその装置の使い方が分かれば俺の言葉も翻訳してくれるのだろう。しかしそれを使った予約システムは、あいにく俺たちの電車には導入されていない。つまり、触ったことがない。
 ここはジェスチャーだろうか……と手を広げかけると、再び機械が目の前に差し出された。しかし画面には何も書かれておらず、代わりに赤い丸が表示されている。
 彼は無言でその丸に触れ、ピロンという軽快な音を鳴らすと、口元でぱくぱくと手を動かした。それは「喋って」と言っているように見える。
「ええと、デッキにいた研究員に名前を聞いたんですよ。こちらこそ急にお声かけしてすみませんでした。……イガラシさんの名前は、五十の嵐と書いて、五十嵐ですか」
 深くは突っ込まれないだろうと嘘をつきながら、会話を逸らすついでに気になっていることを機械に向かって聞いてみる。
 話し終えると再びピロンという音が鳴って、今俺が話した言葉と、それを翻訳したらしい日本語が表示される。未来の機械はこんなこともできるのかと舌を巻く思いだ。
 五十嵐さんは俺の言葉を確認して、また文字を書き始める。
――はい。五十の嵐で、五十嵐です。漢字にお詳しいですね――
「偶然、知り合いに同じ名前の人がいまして」
――なるほど――
「ええと、ゲストが出てくるまで、ここで待っていてもいいですか」
――問題ないです――
「……文字表示させるの、大変ですか」
 だんだん返答が短文になってきた彼は、じっと俺を見た後ピロンという音を鳴らして自分の口に端末を近づけた。滑らかな日本語が紡がれる。初めてこの世界の彼の声を聞いた。
――ばれましたか。結構入力するのしんどいんです。話した方が、簡単――
 無表情な彼の目元が少し緩んだ。真面目で固そうに見えるが、意外と砕けた人。その印象は向こうの世界と変わらない。
 こちらの世界の彼とも親しくなれる気がする。俺たちは最後のゲストが見学を終えて施設から出てくるまで、機械越しに何度か他愛のない会話を繰り返した。

 

  6


 それからというもの、夜が来るたびに毎日五十嵐さんとデッキで話をするようになった。
 とは言っても締めの作業の合間の限られた時間だ。だから一言二言交わすだけの日ばかりかと思えば、最終案内が遅くなった日はのんびりと話せる日もある。
――いつも会いますね。あなたも締め作業担当なんですか――
 毎晩やってくる俺に首を傾げながら五十嵐さんは言った。
「ええ、まあ。ここから乗客を見送るのが好きなんです」
 本当のところ彼の様子が気になって率先して確認役を引き受けているのだが、素直に答えても気持ち悪いと思われるだけだろうから、そういうことにしておいた。
 駅舎を見上げればちょうど停車していた電車がニューヨークへと動き出すところだ。街頭に灯された比較的明るいところに出て大きく手を振れば、こちらに気が付いた乗客のシルエットが手を振り返してくれた。五十嵐さんも俺の隣に立って手を振りながら、器用に端末を操作している。
――あれであっという間に時空を超えるっていまだに不思議です。あなたは毎朝あれで来てるんですよね――
「そうですよ。ニューヨークに行ったことはありますか?」
――ここに来るときに一回だけ。ニューヨーク経由で来たほうが早かったんで。でも観光したことはないですね――
「ならそのうち来てください。最近だと廃ホテルの見学ツアーとか、蒸気客船の海底展望室とか色々ありますけど……俺のおすすめは劇場街のデリですね」
――飲食店ですか――
「はい、あそこのサンドイッチが美味いんです。あ、俺のおすすめはメニューに載ってないやつで、いつも特別作ってもらっているんです。あたたかいベーグルに、ザワークラウトと、トマトと、チーズを挟んだのがもう絶品ですよ。一度食べてもらいたいなあ」
――なるほど。覚えときます――
 再び口を開こうとすると、「待って」というように手のひらを向けられた。五十嵐さんの指が慌ただしく端末の上を滑っている。
 隣から覗きこむと日本語の単語が並んでいた。どうやら今俺が言った材料が書いてあるらしい。その几帳面さがなんだかおかしくて笑うと、五十嵐さんは「心外だ」とでも言いたげに大げさに肩をすくめるので、余計に笑ってしまった。
 
 何度か会話して分かったことだが、五十嵐さんは大学院まで通い、自主研究が認められて第一志望の大手の造船企業に就職が決まっていたが自分の見分を広げるためにこの未来のマリーナへ来たという。向こうの世界の俺が知る彼とまったく同じ経歴だった。
 他にも弓道というスポーツをしていたとか、それで全国大会に出て四位の成績を取ったとか、実家は医療関係の仕事をしているとか、いろいろと身の上話をしてくれたが、どの情報もやっぱり俺の知る別世界の彼と同じだった。違うことといえば、働いている研究施設と、英語が話せないことと。そして向こうの世界ではいつも彼の隣にいる小柄な研究員の姿がないことだけだ。
 気が付けば彼と会話をするようになって一週間が過ぎていた。
――一人じゃゲストと話せないんで、夜なんかは会話のいらない作業に回してもらってるんです――
 いつも夜間に同じ場所で作業をしていることについて尋ねると、彼はそう機械越しに話して背を丸くした。
 彼曰く、英語の読み書きならばある程度はできるらしい。しかし話すとなると壊滅的、リスニングはほんの僅かなら、ということだ。
「大変でしょう。慣れない言語で研究しながら並行して観光客の対応まで」
――生活していればそのうち慣れると思ってたんですけど。研究中は専門用語も多くて覚えることが多すぎて……なかなかうまいこといかないもんですね―― 
 機械越しの無機質な会話。それでも、翻訳される前の声のトーンや表情からは気持ちを読み取ることができる。
 会話の定位置であるデッキは暗い。加えて五十嵐さんはもともと表情が乏しく感情を読み取づらかったが、向こうの世界ではあまり見せない顔つきをすることがあった。少しだけ口角を上げるのだ。そんな時は、彼の自身のなさが表れている証拠だった。
 そんな彼の姿を見るたびに俺は昔の自分を思い出した。当時付き合っていた女性に振られ、好きで叶えた自分の夢に自信が持てなくなっていたときのことだ。あの時は自分と誰かを比べては勝手に落ち込み、それは卑屈になっていたように思う。
 俺は五十嵐さんにかつての自分を重ねていた。こちらの世界の彼が追う夢を応援したい。
「五十嵐さんは、昔から今の職に就くのが夢だったんですか?
 彼は首を捻って少し間を開けた後、端末に話しかけた。
――本当は、ガンダムとかエヴァとか作りたかったんですよ。小さいころ――
「ガンダム……? エバ?」
 聴きなれない単語に首を傾げる。
――例えばあの電車、人型にトランスフォームして操縦できたらカッコイイと思いません? そんなかんじです――
 五十嵐さんが言う姿の列車を想像してみる。なるほど、もちろん今のままでも十分格好いいが、それはそれで魅力的かもしれない。
――けど現実そんなものが実現するほど技術は追いついてなくて。で、なら別の人が乗れるでかいもの作ろうってなって、今です――
「五十嵐さんの時代でも実現していないんですか?」
――近いものは作られてますけど、ぜんぜん実用レベルじゃないです――
「この世界なら作れますか?」
 ――どうですかね……魚の研究のために謎のマテリアル開発するくらいだからいけるんじゃないですかね。ジャンルが違うんでやらんでしょうけど――
「ジャンルが違う?」
――空飛ばないと意味ないんで――
 飛ぶものだったのか。人型の電車が?
 目を丸くした俺の表情がおかしかったのか、五十嵐さんは無表情のまま吹き出した。
――昔の話ですよ。小学生の時の夢です。今は船舶ひとすじなんで――
 彼の話は、もう一方の世界の彼にも聞いたことがないものだった。船舶なら海の研究をしているこちらの世界の方が彼には合っているのかもしれない。
「では、天職に就けたんですね」
 好きなものに没入できる環境があるのはいいことだ。喜ばしく思って笑顔を向けると、五十嵐さんは翻訳機の画面をじっと見つめたまま固まっていた。
 暗がりの中で煌々と光る画面がぐ、と眉間に寄った皺を照らした。
「……五十嵐さん?」
 腰を少しだけかがめて、端末越しに顔をのぞき込む。はっとしたように顔を上げると、彼はなんでもないというように頭を振った。
――すいません。あれ、中に置きにいかないといけないんで、ちょっと失礼します――
 そう端末に表示させると、船舶に積んでいたらしい機材が入った箱を持って彼は研究所の中へと消えてしまった。 

  7
 
 その日の夜も、乗客の最終確認のために俺は高台を降りていた。
 レストランの前を通りすぎ研究所前へと向かう。まだ見学者がいることを入り口付近の研究員に確認して、五十嵐さんを探しデッキに向かう。しかし、いつもならそこで作業している彼の姿が見当たらない。
 今日は非番なのだろうかと思いながら、デッキを歩いていく。海風が強くなり、帽子が飛ばないよう深く被りなおした。
 橋の末端は円形の少し開けたスペースになっており、中心に大きな円錐台の形をしたオブジェが鎮座している。その奥にかすかに人影が見えた。どうやらあちらを向いて台座に腰かけているようだ。
「こんばんは」
 五十嵐さんの姿が見えるところまで近づき、声をかける。翻訳なしでも挨拶は伝わるだろう。彼は隙間からごうごうと水があふれる水門の方をぼうっと見つめていたが、俺に気が付くと立ち上がり頭を下げ、手にしていた端末をずいっと目の前に差し出してきた。
――お話したいことがあります――
 既に準備していたのであろう文字を確認する。改まってどうしたのかと首をかしげると、台座に座るように促された。仕事中ではあるが、ここからならば観光客が出てくるところも見えるし、少しならいいだろう。
 並んで腰を掛けたが、五十嵐さんはなかなか話を切り出さず画面が消えた端末を弄んでいる。言いにくい話なのだろうかと考えたが、俺から場を和ませようにもその端末を貸してもらわないと俺の言葉は伝わらない。
 しばらくの間、水門の水漏れと波がデッキにぶつかり飛び散る音だけが響いた。
 やがて、ようやく五十嵐さんが端末を起動して話しかけ始めた。軽快な電子音を発して翻訳が完了した画面を横から覗き込む。
――ずっと気になってたんですけど、これ、なんなんですかね――
 これとは? と思いながら五十嵐さんを見ると、彼は自分の後方斜め上、つまりまさに俺たちが今座っている建造物を指差していた。その上からは、空に向かって一本の光の柱が突き出している。
 俺はこれが何だか知っている。
 ストームライダーを研究所まで導くためのストロボライト。
 たとえ夜間や悪天候で闇に吞まれても、迷わず戻ってこられるように強烈な光を上空に向けて放っている。
 けれども、なぜ気象コントロールセンターが存在しないこちらの世界にこれがあるのかまでは知らなかった。秘密の多い友人に訪ねてみたこともあったが、困ったように首を捻って「まあ……お偉いさんの事情かなあ」と一言返されただけだった。
「さあ……なんでしょう。……船のための灯台とか?」
――いえ、灯台は駅の横の、あの赤く光ってるやつですよ。航路標識にもいろいろありますけど、これは施設灯とも違う気がします――
 適当に知らぬふりを通そうとしたが、そういえば船関係は彼の専門分野だった。そうなんですねと考えるそぶりをしながら、俺はある一つの考えに至っていた。
 なぜ彼はわざわざ俺を呼び出してこの話をしているのだろう……。もしかすると彼は、この世界の成り立ちになにか気づいたのではないだろうか。
 この世界と別の世界の話を誰かにしてはならない。そういうルールだ。しかし、それは俺の働くエレクトリックレールウェイの職員たちが他の世界に混乱をきたさぬようにと決めた話だ。彼が自分で気が付いてたのであれば、彼と秘密を共有することは許されるのだろうか。
――研究所の誰に聞いても、誰も知らないんですよ。なぜ存在するのか。……必要とされてないのに在るって、おかしな話ですよね――
 画面を確認してうなずきながら、はやる気持ちを整理する。こちらから切り出すべきだろうか。俺の知ることを話すべきだろうか。それとも、知らぬふりを続けるべきなのだろうか。俺の選択が世界の均衡を変えてしまうかもしれないという思いが判断を鈍らせる。
 再び五十嵐さんの声が響き、端末が差し出される。俺は覚悟を決めながら端末を、見た。
 しかしその言葉は、俺の想像していた内容ではなかった。
 
――今までありがとうございました。辞めることにしました――
 
 短い文章を何度も読み返した。予想していなかった告白をすぐに理解することができなかった。辞める? なにを?
――研究所、辞めて実家に帰ることにしました――
 硬直する俺の気持ちを読み取ったのか、再び五十嵐さんは機械越しに説明をする。いいや、言葉の意味は理解している。なぜ、急に。
「……理由を、うかがってもいいですか」
 五十嵐さんは少し視線を泳がせて、地面を睨んだ後ゆっくりと端末に口を近づけた。いつもより小さく唇が動いて、機械がいつもより時間をかけて、とぎれとぎれの彼の言語を訳した。
――俺には、難しすぎて――
――ダメなんです。今までは努力すればなんとかなってました。もちろん今もやってるんです。けど――
――ついていけない。周りに。言葉の壁も、知識の壁も、今まで俺が生きていた世界とは違いすぎて――
――みんな優しいです。けど、ひとりでどうにかするのは限界で――
――つかれて、しまいました――
 画面から顔を離して、五十嵐さんの顔を見る。無表情な彼の口許が少しだけ上がって、笑った。
 毎日話をしていたのに、彼が思い詰めていたことを俺は知らなかった。
 あちらの世界の彼は、言葉の違いや膨大な知識が必要とされる苦労を乗り越えて研究に臨んでいた。その姿を知っていたからこちらの世界の彼も問題ないとすっかり思い込んでいた。
 彼は、ずっと追い詰められていた。孤独だったのだ。
「そう、ですか……」
 翻訳機からも拾えない声が漏れる。
 何と言えばいい?「弱気にならないで」? いいや、ずっとひとりで戦ってきた彼にそんなむごい言葉はかけられない。「なんとかなるよ」? そんな無責任で軽薄な言葉は彼を追い詰めるだけだろう。俺は彼の選択を止めることも、励ますこともできない。ぎゅうと胸が絞られたように痛んだ。
「……お帰りになるのは、いつですか」
 冷静を装って尋ねる。俺のこの世界での勤務期間も、気がつけばあと幾日となっていた。俺が別の世界に戻る前に、彼を見送ることはできるだろうか。
――明日です――
「明日……」
 乾いた声が漏れた。なぜもっと早く言ってくれなかったのか。そんな気持ちが腹から湧き上がって口をつきそうになったが、水辺の向こうから届くがやがやとした人の声が俺の気持ちを押しとどめた。観光客が施設から出てきたのだ。
 反射的に俺と五十嵐さんは立ち上がり、話がうやむやになったままその場で別れた。施設を後にする観光客を最終電車へと案内しながらデッキを振り返ると、いつもどおり作業している彼の後ろ姿が視界に入る。
 考えてもみろ、別世界の彼を知っていたから勝手に親しいと思い込んで、踏み込んで彼を知ろうとしなかったのは、自分ではないか。
 彼の力になりたいと思いながら、俺は何もできていなかった。
 
  8


 翌日は大雨だった。風が吹き荒れて、顔面に大粒の水滴を容赦なくぶつけてくる。
 未来の港に降り立った人々は悲鳴を上げながら舞い上がろうとするスカートを抑えたり、暴れる傘と格闘していた。俺たちにとっても仕事のしづらい環境ではあるが、もう一つの世界の天気の荒れように比べれば大したことはない。制服の上に着こんだ雨具を頼りにしていつものように明るく観光客を送り出す。
 やがて雨が小降りになって日が暮れ始めたころ、五十嵐さんが現れた。大きな真っ黒の旅行鞄を抱え、反対の手には傘を持ってレストラン脇の階段を登ってくる。
 体格のいい彼でも重いのか、ため息をつきながら車輪付きの鞄を地面に置くと、五十嵐さんは駅舎の入り口にいた俺に気がついて「あ」というように口を開けた。こちらに向かって歩きながら軽く頭を下げる。俺もつられるようにして頭を下げた。 
 駅の屋根の下までたどり着いた五十嵐さんが傘を畳むのを待ってから、手を口元にやってぱくぱくと開閉させる。彼はすぐにいつもの端末を向けてくれた。
「……今まで、頑張りましたね。どうかお体に気を付けて、お帰りになってもお元気で」
 翻訳機越しにそう伝えると帽子を取って胸の前に持ち、深く礼をする。定型的な挨拶にしかならなかったが、本心だ。彼の選択を止めることも責めることもできない。それでも彼のことを応援したい。あちらの世界の彼とは違うなら、進むべき道だって違うのだろう。
――ありがとうございます。あなたもお元気で――
 そう返事をして、彼は俺と同じように深く頭を下げた。そして顔を上げると端末をズボンのポケットに入れ、駅舎へと入っていく。
 彼はこの先どうするのだろうか。もともと就職するはずだったという会社に勤めるのだろうか。それとも、実家の医療関係の仕事を引き継ぐのだろうか。あちらの世界では実現させた、船舶の仕事から身を引くこともあるのだろうか。
 雨の日の夕暮れ時の乗客は少ない。列の最後尾に並んだ五十嵐さんも次の列車に乗るだろう。乗り場にいた同僚が荷物を指差しながら五十嵐さんに何か話しかけている。きっと、荷物を置くスペースのある一番端の席に座れるように計らっているのだ。
 あの鞄には、ここで過ごした彼の努力や苦悩が詰まっている。そう考えるとあの入れ物では小さすぎるくらいに思えて、ちくりと胸が痛んだ。
 俺だって挫折をしていたかもしれない。自分と他人を比べて卑屈になっていたころを思い出す。すっかり自信をなくしていた俺を助けたのは偶然の出会いだった。あのキャプテンの友人だ。彼が怪我した俺の手を見て――
 はっとして顔を上げる。
 そうだ、そもそものきっかけは、手の怪我だった。
 乗客をかばおうとして手を挟んだ。その乗客は申し訳なさそうに見舞いに来て、大袈裟にお礼を言って俺を驚かせてくれた。
 あの時俺を勇気づけてくれたのは、五十嵐さんだったじゃないか。 
 ガタガタと金属のレールが振動する音が聞こえ、線路の先から赤い車体が顔を出した。スピードを落とした電車がゆっくりと高台に構えた駅に入ってくる。ポートディスカバリーを見渡せていた視界が遮られた。
 間もなく乗客が降りてくる。列が進み、入れ違いに新たな乗客が乗り込んでいく。五十嵐さんが行ってしまう。
「――五十嵐さん!」
 思わず、電車に乗り込もうとする背中を大声で呼び止め駆け出していた。入り口の前で振り返った彼は、驚いたように目を丸くしながらポケットに手を伸ばしている。走りながら水滴の滴るフードを取り去った。
「あなたは、大丈夫です」
 彼の前に躍り出ると、端末を取り出した手を掴んで止めた。戸惑った様子の彼に、可能な限り優しい英語で力強く繰り返す。
「あなたは大丈夫です。絶対に」
 東洋人らしい焦茶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 彼とは友人と呼べるほどの関係にはなれなかった。彼の背中を押すこともできなかった。それでも、あなたを応援している人間がいるのだと、未来を願っているのだと伝えずにはいられなかった。
「この先どんな壁にぶつかろうと、どんな選択をしようと、あなたには絶対によい未来が待っています。俺には分かります」
 急かすように電車の鐘が鳴った。見れば同僚が運転席の窓から顔を出している。すでにほかの乗客は全員電車に乗り込んで、不思議そうに窓越しにこちらを見ていた。
「……いつかまた、お話しましょう。ここでお待ちしています。その時はきっと機械なしで……直接話せたらいいですね」
 名残惜しく思いながら手を離し、指先をそろえて帽子の前に掲げた。
 最後の言葉は彼には伝わらなかったかもしれないが、わずかに彼は頷いて電車に乗り込んだ。ガタガタと音を立てて扉が閉まり、再び鐘の音が鳴り響く。
 走り出した電車の窓越しに、こちらを見つめる彼に大きく手を振った。彼は手を振り返すことはなく静かに俺を見ているだけだったが、俺は電車が見えなくなるまで、手を振り続けた。
 
 あの日を最後に、青い世界で五十嵐さんに会うことはなかった。

​  9

 予定通り同僚の代理の期間の勤務を終え、俺はオレンジ色が眩しいポートディスカバリーへと戻ってきた。久しぶりの別世界の勤務は新鮮なようだが、特に業務が変わることはない。いつものように笑顔で乗客を迎え、送り出す。慣れ親しんだ日常だ。
 旅行客以外にも、エレクトリックレールウェイを使う人々は多い。ニューヨーク行きの電車を待つ列の中に、見知った二人組を見つけて声をかけた。
「こんにちは。今日はオフですか?」
「ええ、そうです! たまには日本食でも食いに行かないと。なあ健士郎!」
 そう答えたのは五十嵐さんの隣にいたミツルさんだ。小柄なミツルさんと背の高い五十嵐さんは同期らしく、一緒にいることがほとんどだ。
 最近知ったことだが、日本人とカナダ人のダブルだという彼は五十嵐さんに英語を教えているらしい。こちらの世界の五十嵐さんも英語に不安があったとは知らなかった。そんな五十嵐さんは相棒の言葉にしずかにうんうんと頷いている。
「櫻で飯食ってー、ついでに舞台見ちゃう?」
「や、そこまで時間ないんじゃないですかね……寝坊してこんな時間ですし」
「げえ~~……昨日ゲームに熱中しすぎたよなあ」
 楽しげに会話をする二人の姿は微笑ましい。こうして乗客が目的地での過ごし方を話しているのを聞くのも楽しみのひとつだ。
 ふたりに軽く会釈して列の確認作業に戻る。
「そういやお前今日も行くの? あのデリカッセン」
「行きますよ。俺、あれ食わないと翌日仕事にならないんで」
「好きだよなあ、あのサンドイッチ。ベーグルにサーモンとトマトとチーズだろ? わざわざ店まで買いにいかなくても俺が作ってやろうか?」
「あとザワークラウトですね。お気持ちだけありがたくいただきます。あそこのじゃないとダメなんですよ、いろいろと」
 乗客の人数を確認していた思考が停止する。
 なぜ、そのメニューを彼らが知っているのだろう。それは俺がいつも特別作ってもらっている、通常メニューにはないアレンジだ。話したことがあるのは数人に限られるはずで――

 ――俺のおすすめはメニューに載ってないやつで。いつも特別作ってもらっているんです。あたたかいベーグルに、ザワークラウトと、トマトと、チーズを……

 ドクンと心臓が鳴った。
 いいやまさか、そんなはずは。
 列車を降りるお客さんを出口に促しながら思い返す。
 そういえば彼は、初めて出会ったときにどんな顔をしていただろうか。
 慎重な彼がよそ見をするほど、何かに驚いてはいなかっただろうか。俺が怪我をして見舞いに来てくれたとき、なんと言っただろうか。

 ――俺のことを覚えていますか

 ああ、まさか。いいや、まさか。
「あの、大丈夫すか? なんかケツについてます?」 
 気が付けばじっと二人を見つめていたようで、視線に気が付いたミツルさんに声をかけられる。
「あ、いえ、すみません。その……」
 隣の身長の高い男に目を向ける。彼はきょとんとして黒い目を瞬いた。
 あちらの世界で見送った姿に本当によく似ている。なぜこれまで全く気が付かなかったのだろう。
「……英語、上手くなりましたね」
 アーモンド形の男の目が、大きく見開かれた。ああ、やっぱりだ。
 硬直する彼と、ぽかんと俺たちを見ていたミツルさんが口を開こうとする前に、乗客の列が動き出す。はっとしたように二人は波に乗って歩き始めた。
「頭上に気を付けて!」
 こちらに視線を向けたままの五十嵐さんに大声で呼びかける。慌てて正面に向き直った彼は身をかがめて列車の入り口の扉をくぐった。
 ガラス越しに目が合う。
 彼の口がぱくぱくと動いた。「いつから」と。
 俺が口角を上げて唇に人差し指を当てると、五十嵐さんは見たこともないくらい眉根に皺を寄せて、それがおかしくて思わず吹き出した。

 この世界の仕組みを誰も説明してくれない。
 俺にとっては平行した世界だ。けれども、人によっては過去だったり、未来だったりするのかもしれない。

 発車を告げる鐘の音が鳴り響き、駅舎の床を振動させて電車が時空を超えようと動き出す。
 俺は大きく手を振って電車を見送った。窓の向こうにはミツルさんに話しかけられながら、それを無視してこちら見つめる五十嵐さんが居る。
 やっぱり彼は手を振り返してくれなかったが、俺は電車が見えなくなるまで、約束を叶えてくれた彼に手を振り続けた。
 
 ここでお待ちしています、と。

 

 

 

 

 

 

あとがき
 五十嵐健士郎を作ったのは2017年6月でした。ちょうどシーライダーがオープンした直後のことです。スニークで4月にすでにアトラクションを体験していたものの、CWCはどうなったの?後継のBGSはどうなったの?とまだまだ悶々としていた時期でした。
 健士郎は我々と同じ世界の日本の出身です。
 我々と同じ世界出身の住民がストームライダーのあるポートディスカバリーに居る。そう思うとなんだか安心できる。そんな気持ちから彼をつくり、新たなPDと向き合う中で長い時間をかけてブラッシュアップされ、このお話ができました。
 ちなみに作中に登場するデイビスは、エリックをはぐらかす謎多き男として描いています。はたして世界の諸々の真相はどうなのか……という所ですが、あえて我々は知らなくてもいいと思っています。
 この話自体私の頭の中には3、4年前からすでにあり、2020年に出した住民設定本にもちょろっと書いているので読んでくださった方の中にはオチに気が付いた方もいるかもしれません。
 ずっと頭の中にあったものをようやくこうして小説という形にすることができて心からホッとしています。 
 ぜひ健士郎のことをお友達のお友達程度に思って、活躍を応援していただけたら嬉しく思います。
 オレンジ色のPDによく行く方は、健士郎を見かけたらぜひ色々話しかけてみてください。
 青いPDによく行く方は、見つけたらどうか優しく手を振ってあげてください。

 

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